これは批評ではありません。

布教と悪口とメモ/えんためはなんでもマル

演劇ユニット ロボットパンケーキZ『ワールドワイドな世界の終わりで、それでも、なお、「回転」し「加速」し続けている、僕らのラブリーパンクBPM152。』

ついにロボパン。

相変わらず緒方さんのデザインはとっても可愛いです。

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ただ本編は、ちょっとうーん、ダメでした。自分でもびっくりしたけど、中盤を前に心身に不調をきたしてしまって、途中からは集中を切ってほとんど眺めるだけのように舞台を観てしまいました。真ん中の前の方にいたから、役者さんにはすごく失礼なことをしたと思います。

 

それで、どうしてそうなったかなーってのが今回の話。

 

まず私は開演前に役者さんが舞台上にいる演出がとても苦手です。それでも初めは役者さん同士が雑談したりストレッチをしたりしているだけで、こちらへの干渉がなかったので比較的大丈夫でした。ただ10分前、5分前と開演が近づくにつれて、徐々にクラスメイトを演出する『他愛のない』振る舞いが、自分にはどうしようもなく嘘っぽく見えてしまって(入学直後に同じ学校出身の友達ととりあえずで飯を食べてるような)、これから嘘をホントにする芝居が始まるはずなのに、その場に蔓延した虚構に気持ちが悪くなってしまいました。これは自分の性格に依る部分も多くて、結果的に、演出が狙った効果とは外れた影響を受けてしまったのかなーと。

 

それから本作の肝である「全員10歳」という設定。断っておくと、自分は中盤以降の物語を追えていないのであの少年少女が実際の小学生なのか、幻想の小学生なのか、象徴の小学生なのか、あるいは小学生たちを起点とした伏線が回収されたのかどうかといった点を全く理解できていません。その上で、序盤までの物語と印象だけでもうどうしても言わせてもらうと、10歳舐めてんのか、と思いました。

 

(~しばらく主観的十才論~)

10歳は特別な年齢です。なんたって十代の入口、クラブ活動も始まり高学年の仲間入りだーという程度の変化には収まらない多感な移ろいを見せる季節です。ただ「すき」「きらい」「つよい」「よわい」しかなかった教室の中に急に人間的な表裏、打算・嫉妬・媚びといった対人で生じる複雑な感情の機微が渦を巻き始めるのは明確にこの時期でした。今でもはっきりと覚えています。とにかく毎日一番自分が傷つかないポジションをとるため足りない頭を必死に回していました。また今まさにその年齢に当たる妹を見ていてもそうです。相も変わらぬ暴走的無邪気さを発揮する一方で、みんなと同じ中学に行くべきか真剣に悩み、肌荒れを気にし、おかんが運動会に持ってきた弁当にとりあえずダサいといちゃもんをつけてみる、そんな年齢です。

(~十才論終わり~)

 

私にはロボパンの10歳児たちはどう見たって幼稚園そこそこでした(これは演出面で)。とにかく無邪気に喋る、んで声を張る。みんな同じだからくらくらします。そしてその10歳児たちをよく見ていると、役者レベルでも、10歳ラインが大きく異なっていました。キャラクターを差し引いても振れ幅が年長さんから大卒くらいまであってまたくらくら。

 だからどうして10歳なのかが謎で、もしかしたら作中で明示されてたのかもしれないのですけど。恋と誕生。そのへんもキーワードだったから、そういうセクシュアルな意識を持ち始める年齢という意味で10歳だったのかな。こういうのはまた別の人に相談してみたいところです。

 

一度パーツにとらわれてしまうと、後はもうドミノ式で、狙った笑いに乗れなくなってしまったり、外しをいやらしく感じてしまったりして良くないサイクルにハマって、気が付いたら舞台が遠くなっていました。宣伝美術も舞台美術も衣装も、緒方さんの舞台は断然かわいくて、でもかわいいと暴力なんてやっぱりベタな掛け算だから、コマンドがその2つしか見れなかったのはあまりに惜しい...もっといろんなフレーバーが欲しい......

 

役者さんで言えば、山口さんが圧倒的で、でも高松さんもかなりよかったです。山口さんは俳優さんらしい佇まいで、強引にでも作品を引き締める効果を担っていたし、高松さんが全役者の中で一番10歳という年齢に相応しく見えました。キリハラさん、ウノ・サノもよかった気がするんですが、不調にあっては、いかんせんきんきんに張った声がしんどく正当に受け入れられなかったのが悔しいです。

 

あと照明は素晴らしかったですね。広く平たい舞台に惜しみなく降り注ぐ光が終始美しくて感動しました。お気に入りはダンスシーンかな?文脈はまるでわからなかったけど、それでも魅入ってしまいました。めいさんすごい。

 

心身に不調が及んだなんていうのは良くも悪くもですが、それだけロボパンさんの舞台にエネルギーがあったのは確かでした。下手な芝居じゃそんなことには絶対陥らないし。ただ今回は、むしろ脚本に、演出に、そして役者に宿るそれぞれのエネルギーが分散的に機能してしまったように感じて、その不協和音に酔ってしまったのだろうというのが結論です。

 

これは完全に余談ですが、ロボパン然り、モニカ然り、星の降る森然り、大橋出身の方の舞台ってやっぱり文脈よりは手法重視なんですよね。そりゃ演劇だから手法には懲りますよってのとはまた別で。全部世界観は違ったけど根底のソウルが近い感じがします。なんかおもしろいなー。長くなっちゃったけど、おわり。

 

※これは批評ではありません。

※これは批評ではありません。