これは批評ではありません。

布教と悪口とメモ/えんためはなんでもマル

砂漠の黒ネコ企画『Gogh Quartet』

初めて枝光駅で降りました。

枝光アイアンシアターデビューです。

劇場までの道中びっくり。すき屋しかねえもの。

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今回ひとつ「しまった」と思ったのは、割と直近で彗星マジックさんの『ポストグラフ』を見ていたことです。

postgraph.jimdofree.com

ポストグラフもまた画家・ゴッホを主題に据えた作品。いかにモチーフの捉え方が違えど、どうしても先入観なしに見ることができなかったのはとても残念でした。改めて舞台は前情報なしが一番純粋に楽しめるなと痛感します(東京旅行での『愛犬ポリーの死、そして家族の話』然り。超良かった)。

 

さてさて。「―全員、ゴッホ」という魅惑の触れ込みから観劇前の私が想像していたのは、ゴッホの人格が4つに分裂した、いわゆるインサイドヘッド的な構成だったのですがこれは大きく外れてました。

 

物語の軸はタイムスリップで、4人の役者はそれぞれ中年期/壮年期/青年期/幼年期の配置というのが正解。本作は南フランス・アルルに移り住んだばかりの壮年期のゴッホの元に、人生に絶望した中年期のゴッホが画家としての未来を諦めさせようと訪ねてくるところから始まります。彼らは己の退廃の根源を探るべくさらに過去へと遡り、青年期、そして幼年期の自分との邂逅を果たしますが、やがてどれだけかつての自分の痴態を恥じ悔いてもそれは未来の退廃の源では気づきます。過去と、未来と対峙しながらゴッホという芸術家の多層だが真っ直ぐな生き様を描き出す、そんな感じの作品でした.。

あってる...かな?

 

いーなーと思ったところ。

幼年期のゴッホを担う関さんが何かとツボでした。まず全然動かない。ずっと隅っこで座っている。そろそろかなーと思う。まだ動かない。それで緒方さん(青年期ゴッホ)が恋人との思い出を情感たっぷりに語り出すと同時に、ようやく舞台へ上がって、どうすんだと思っていたらあれよあれよとシャツを脱がされ上裸で絵画にするりと収まる。このあたりの関さんのすんとした佇まいが確かに色っぽくて、長身の俳優さんであるものの、中性的な魅力がありました。それから物語全体としても幼年期ゴッホの登場から一気に場面が鮮やかになったようでがぜん引き込んできます。大きな体躯に幼い心というギャップのある役どころでしたが、隙のある面白さと安定感があり、気づけば自然に目がいっていました。推せる。

それからゴッホという一人の人生の多面性を、時間軸で区切られた別の人格として切り取ってしまうという見せ方がよくて、特に場外からゴッホが参戦するくだりは非常に決まっているなと感じました。未来のゴッホが過去の自分を責めては遡り、責めては遡り。しかし『ゴッホ』という将来の成功モデルを提示されたときに、今まで外に向いていた攻撃の矢印がようやく内に深く突き刺さっていることを自覚する。ここの振れ幅の怖さが、私まで傷つけられたような感じで、ひりひりしました。演出が自らが登壇する演出があまり好みではないので、はじめは一瞬ヤだなと思ったのですが、本作の 宣伝コンセプトや意外性を考えると納得できたし、抜群に皮肉が効いていて結果的にとても好きな場面です。

 

 中盤にエッジの効いた面白さが炸裂する反面、ややスロースタートな印象はありました。原因は序盤の装置やプロジェクターを用いた演出が自分にハマらなかったこと、また全員がゴッホという事前の認識があったため脚本段階での突飛さが舞台で既視的に見えてしまったことかなと思います。加えて、先に見たポストグラフのゴッホ像が先行し、その前身(?)である中年期や壮年期のゴッホ人間性を受け入れるのに時間がかかってしまったという個人的な反省もあります。記憶消し飛ばしてもう一度みたらまた違った印象になりそうです。

 

私が今までに見たきーやんさんのお芝居とは少し毛色の違う印象の作品で、だからこそまた次は何をやるんだろう...と今から新作が楽しみな作品でもありました。それにしてもアンケートで心に残った役名を書かせる欄があったのは笑っちゃいましたねー。いや全員ゴッホやないかーい。大人の遊び心。

 

ポストグラフ、カルテットときてもっとゴッホについて史実(事実)を知りたくなってきました。あと『7人のシェイクスピア』とか、未読だけど、構成近いのかな。

 

※これは批評ではありません。

※これは批評ではありません。